その「型」を受け継ぎつつ、弟子はいずれそれを壊し、超えていくことが「型を受け取る」者の前提として含まれていたのではないか。
一方、西洋的な「基礎」「基本」という考えは、ある教科には誰もが必ず学ぶべきもの、と考える絶対的なものが存在し、それを「マニュアル」化して
教えこむべきことと、考えられている。だがしかし、本当にいつまでも変わらない基礎というは、どのくらいの量存在するものだろうか。
(私は“基礎”を否定してはいない。人間の共通の特性という科学的基本を捉える“基礎”は大切だと思っているが、その量はそれほど多くないと思う。)
時代とともに移り変わっていってしまう価値観までもが、絶対化されて覚えるべき“基礎”として強要されることがありはしないだろうか。
そしてまた、「型」が西洋的な「基礎」と同一視されて、絶対的なもの、と思われることが多くの研究所・養成所で見受けることができはしないか。
「型」自身が自己否定を忘れ、自己を絶対的な存在と勘違いして、他者に強要し、他者の存在価値を値踏みする物差しとして使われていないか。
そこでは、「型」が「マニュアル」と同一化し、よりマスターした者が、マスターしていない者に対して優越感を持つ、免罪符のようになったりする。
また、学ぶほうも、すべての工程がマニュアル化して、「どこまでマスターしたか」というわかりやすい階段を、まさにステップバイステップで
上り続けるという目標を持ちたがるので、いくつかの教育機関では、そのような明瞭な目標を何段階にも設定したカリキュラムを組む。
しかし、このシステム下で学べるのは、最良のケースでもその時代の、その教師のつかんだものより、おそらくずいぶん下のポジションだけであろう。
なぜなら、マニュアル化できるものというのは、感覚的な行為を言語に置き換えられらたものだけで、肝心の感性の働きは伝え得ない。
またその技は、その教師にとっては適切な技術であっても、個別の生徒の性質や素養にあった技術である保障はどこにもないからである。
そういう、教育現場の特性を知れば知るほど、「型」と「型崩し」の関係、「型」も“教える”のではなく“盗ませる”ことの意味と合理性を再考したくなる。
「型」は“崩す”ことを前提として観察することで、「型」を客観的に捉えることができるだろう。あらかじめ、「自分に合うところも、合わないところもある」
という前提でみているからだ。しかも「教え込まれる」のではなく、自分から「盗む」という行為を通すことで、「自分に合うところは学び、
合わないところは捨てる」という能動的な掴み方ができ、この方が、学ぶ側の血肉になり易いと思う。
また、師匠の技術の一部に納得いかなかった場合、「ではほかの師匠はこの点について、どういう方法をしているのか」という方向へ興味もわく。
そうしたことを統合していくことで、いつの間にかひとつの「型」を超え、その人なりの「型」ができあがっていくことは間違いないと私には思える。
「盗む」方法には、他の利点もある。「盗む」には、本人の積極的な能動性(意欲)が必要不可欠である。
その道への“意欲”を持つことのできない者を早い段階で、他の(その人が意欲を持てる)道へ(間接的に)導くことができるはずだからだ。
絶対的な「マニュアル」信仰、「均一的サービス」という名の教育、(その道に意欲を持てない人への)画一的強要を再考する必要があるように
私には思えてならない。
昔の教え方というのは、ある面では不親切で差別的とも思えるが、別な面からみると合理的で優れた点もあると、私は再評価している。